コンプライアンスとガバナンス

先日、ある人との会話の中で、最近の日本社会はコンプライアンスとガバナンスが2大キーワードになっているという事で意見が一致した事がありました。

その後、その事をしばしば思い出す事がありこのキーワード自体が日本人の意識に馴染まないのではなかと思い至りました。

確かにこの二つの事は企業にとっても社会にとても大切な事だと思います。
しかしそれは最低限のラインであって、それをクリアしているから何をしても良いというものではない筈です。

例えば、コンプライアンスを直訳すると法令順守となりますが、逆を返せば違法か、或いはそれを縛るルールがなければ、力のある者が都合のよい解釈で物事を推し進めるという実態は過去の事実がそれを証明している事でしょう。

しかし、此れを「理念」や「道徳」、「志」と日本語で表記した時に我々日本人はその言葉にどんな意味をかんじるでしょうか。

実際にあった話を例にあげれば、日本を代表する家電メーカーのパナソニックと東芝の隆盛と衰退は記憶に新しい事でしょう。

石油ファンヒーターで事故が起きた時、その製品の保障期間はとうに過ぎていたにも関わらず、パナソニック(当時はナショナルかも?)新聞は無論の事、テレビCMの枠を事故の危険と製品回収を告げる告知に差し替えたといいます。
そのコストは何十億にも達したそうですが、その徹底した顧客主義により消費者に支持される結果となったそうです。

一方東芝は・・・、皆さんがご存知の通りの有様になってしまいました。
トップとて人間ですから、判断ミスすることはあるでしょうが、そのミスへの対処如何で、その人の真価が問われるのではないでしょうか。

現在、この愛知県ではあいちトリエンナーレなる芸術イベントが開かれていますが、展示をめぐる処々の問題で、愛知県知事の記者会見を見ていて愛知県民として恥ずかしく思いました。

半笑いで「僕悪くないもん」と言わんばかりの言い逃れ会見はあまりに見苦しい姿でした。
天皇陛下の御真影を燃やした挙句に土足で踏みつける展示など、いくら芸術と言われても、多くの国民にとってとても容認できるものではない事でしょう。

県民のトップとして、政治家として、判断ミスがあったのならそれをどうリカバリーするかを考えてもらいたいものです。

2019年 8月 23日掲載
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