かわら版【社長気まぐれブログ】
最近は「おむすび」がマイブームとなっています。
「おにぎり」ではなく「おむすび」です。
以前に書いた、たくあんがなぜ二切れかにもありますが、つくづく日本人って使う言葉ひとつにたいしても心遣いをする民族だなって感じます。
おにぎり(元々はたぶんお握りでしょう)という言葉の中に「切る」という音を見つけてそれを「結び」に置き換えるなんて粋だなって思います。
そういえば以前何かで自分の妻が友達との会話のなかで自分の事をどう言っているかで奥様の心情をさぐる事ができるというのを聞いた事があります。
うちの人、主人、亭主、旦那、あの人なんていうのもあるのかな?
「あの人」と呼ばれるのは論外として、「旦那」という言葉には侮蔑があると言うもの。
旦那の語源はサンスクリット語の「ダーナ」(寺院の施主や檀家、いわゆるパトロン)から来ているそうです。
前の三つはどれも帰属意識がある為に「旦那」とは一線を隔すものらしいです。
自分的には亭主と呼ばれるより旦那と呼ばれる方が耳障りが好いなと感じていたんですが、へ~と思ったものでした。
逆はどうjなのかな。
先輩の中には「ばばぁ」なんて呼ぶ人も・・・(もちろんテレもあるとおもいますが)
私は尊敬(畏敬か?)も含めて「カミサン(神さん)」と言っていますが。
いずれにせよ、普段使う言葉にも心配りをしたいものです。
なんて書くと、いい気になってる愚か者と思われるかもしれませんが、最近はどんな事が起こってもそう思えるようになってきました。
それは、身の周りに起きる良いことも悪いことも一緒にやってくるとわかってきたからです。
以前の自分は、何か悪い事が起きるとそれに意識を集中してしまっていたので、振返ってみればいい事の芽があったのにそれをやり過ごしてしまったりしていました。
私は数年前から自分年表を作っています。
はじめは会社の年表を作ろうと、創業年やその時の創業者の年齢を表計算ソフトに書き込みはじめたのがきっかけでした。
縦軸に西暦と元号をとり、(自分にとって)いい事も悪いことも書き込んでいきます。
そうすると、自分の人生にもいろんな事が起きてきて、「結構楽しい人生を送ってきてるじゃん」と思えてくるのです。
当時は八方塞がりに思えた事や立ち上がれそうもなかった挫折感も、今考えれば笑って話せるような事だったりします。
そして、厄年だと思っていた年にもいい事はちゃんと起こっていたのです。
問題は自分がどちらの事象に意識を向けるかだという事に今頃ながら気づきました。
今日はとってもいい気分で一日が終われそうです。
仕事の途中で立ち寄ったコンビニで、とても笑顔の素敵な店員さんにお会いしたのです。
そのコンビニはいつも通る道にありますが駐車場も狭く、少しばかり入りにくいお店だったので普段はあまり利用した事のなかったお店です。
買い物を済ませてレジに向かうと、私の顔を見ながら笑顔で「ありがとうございました」と言う店員さん。
「ありがとうございました」という言葉は大抵のコンビニやファーストフードのお店でも聞かれます。
それは、社員やアルバイトに対して接客の教育もマニュアル化しているからでしょう。
しかし、マニュアルでは伝えきれない心の持ちようというものが、人を惹きつけるのだと思います。
只、そこに気持ちの篭った笑顔が添えられているかどうかでこうもお客の気持ちを左右するものかとあらためて感心しました。
同じ商人として、学ばせていただいたひと時でした。
そして、またあの笑顔に合う事を期待して、私はそのコンビニを利用するだろうと思います。
先日、地元の高校野球の強豪である大府高校と母校の中京高校との間で毎年行なわれている親善試合についてテレビ放映されたものを見ました。
その親善試合は、レギュラー以外の3年生を中心にしたサポート部員のハレの舞台として用意されている試合。
愛知県の決勝が行なわれる球場で、場内アナウンスやチアリーダーも本大会さながらで行なわれているようでした。
開始時間が夕方からというのも、生徒を支えた家族が観戦しやすいようにとの配慮でしょう。
私たちが居た頃は、野球部と云えば入部から数ヶ月で7割の生徒が脱落し、その後も厳しい練習に耐えられない者、怪我に泣く者も多く、選手に成れるのはほんの一握りでした。
私が在籍していた相撲部は野球場(中京の場合はグランドではなく野球場でした)の3塁ベースのすぐ隣に道場がありましたので、より感慨深く見る事ができました。
タイトルの耐雪梅華香とは、中京高校の(敢えて中京大中京ではなく)の校門を入ったところにあった大きな石碑に刻まれていた言葉です。
2年半の間、チームへの貢献を自分達の役割としてきたサポート部員達は、端から見れば華の無い存在に見えるかもしれません。
しかし、その仲間の献身や感謝が、チームにより強靭な意志をもたらし、彼らの人生においてかけがえのない財産となっていくのではないでしょうか?
厳しさは強靭な精神を養い、同じ釜の飯を喰ったチームメイトは、一生の仲間となるでしょう。
この二つはお金や理論で手に入るものではなく、他人と比較することも目にも見えないものですが、間違いなく人の人生においての財産となります。
野球に限らず、一つ事に無心に徹する時、必ず目に見えないご褒美が、将来用意されているのでしょう。
雪が深ければ深いほど、梅の華は強く、香り高く咲くのでしょう。
今年も春の選抜が始まりました。
全ての球児に、梅の華が咲きますように。
先日、「大根を買ってくれないか?」と直接お電話をいただきました。
実は時々こういうお電話はいただくんですが、殆どの場合は虫食いや病気などの訳あり品だったりします。「漬物だから悪いものでも大丈夫だろ」って気持ちがこちらにアリアリと伝わってきます。
こういう場合は丁重にお断りするんですが、今回の方は「ウチ(弊社)が買い上げてくれなければ、一生懸命に育てた大根が可哀想だがゴミとして処分するしかない」という気持ちが伝わってきたので「一度持って来てみてください」 という運びに成りました。
聞けば、まだ就農して数年の方、希望をもって無農薬で有機農法を取り組んでおられるとの事。
この時期の大根としては皮も柔らかく仄かな甘味もある美味しい大根でした。
新たに就農される方が多くなっているというお話もありますが、嬉しい話です。
毎年お正月に行なわれる、通称箱根駅伝。今年はいつもより少し長い時間みられたので、久しぶりに涙が出るほど感動いたしました。
結果から言えば日本体育大学の総合優勝ですが、今年のキャプテンは3年生。
詳しくはわかりませんが、昨年大会で日体大史上初めてタスキのリレーが途切れてしまった事で、大会直後の総評で監督から檄が飛び、次年度のキャプテンを指名されたそうです。
大学時代に硬派の極のような大学で相撲部に在籍していた私からすれば、歴史ある大学の運動部で下級生が主将を勤めるなど聞いた事もない話でした。
しかし結果は、4年生も、3年生主将を盛り立て、協力して箱根での雪辱を合言葉に一年をかけて見事にその結果をだしました。
私は歓喜の中の選手を見ながら、自分たちの人生や仕事も同じなのではと感じていました。
一区間を走るランナーは一人、しかしその選手の後ろに何人もの仲間の協力があっての事、だから例え独りがミスをして失速しても次のランナーが挽回できる。
また、1レースでタスキを繋ぐのは僅か10人かもしれないけれど、そのタスキは同時に過去の先達から連綿と受け継がれてきたタスキでもある。
復路の下位チームが繰り上げスタートまで後一分足らずというところで辛くもタスキを繋ぐことができ、その選手のゴール後の号泣する姿にそんな事も感じていました。
日体大の監督が、「この一年、食事、睡眠時間等、あたりまえの事をあたりまえに続けた。 感謝のできる選手を育成するように心がけた」と言っていた言葉が非常に印象的でした。
因みに我が母校も出場していましたが、来年も予選スタートです。
ガンバレ、農大健児!
今日は、お久しぶりのお客様にお会いしてきました。
急なご注文でもあり、ここ数年お会いしていなかったので、夕方から多治見市に出かけて参りました。
このお客様は、同業者の漬物屋さんで以前はお互いの商品の売り買いがありましたが今は買って頂くばかりです。
この会社は1908年創業の私どもの会社よりも歴史が有り、お互いの創業者時代からのお付き合いです。
小さな漬物やは不況の荒波に翻弄されがちですが、苦しくてもお互いに軸をぶらすことなく、お客様に喜んでいただける事業を続けて行きたいものです。
今日は、武豊町商工会の町おこし委員会『風おこし委員会』でした。
もう20年以上も委員会の一員として活動していますが、限られたメンバーと限られた予算がもたらすものはマンネリ化です。
片方で、事業を継続してゆく事も非常に重要な意味があります。
大切なことは、変えてはいけない事をきちんと見据えながら、目の前の事業にどれだけ新しい風を入れられるかだと思います。
実は10年以上も私が一番の若手だった事もありますが、数年前からマンネリ化を防ぐ意味を込めて、新しいメンバーを推薦して仲間になっていただいています。
お陰で今日も活発な意見が出されていました。
写真がうまく撮れませんのでとりあえず写真無しで…。
昨日は家に帰ってもごはんが無く、腹ペコで早く食べたかったので、こんなものを作っていただきました。
戻した冷凍うどんに、冷蔵庫に有った玉ねぎとピーマン、レタスを炒めて麺つゆで味付けしたものをのっけて、アクセントにカニ蒲鉾と福神漬をチラシました。
かける麺つゆを少しにして、後半はゴマだれ風味でいただきました。
うどんはレンジで戻してる間に刻んで炒めて…で、5分で食卓に着けました。
野菜のしっかりと摂れるのっけうどんは、暑いでも寒いでもないこんな次期にぴったりです。
レタスはあまり火を入れないように最後にいれて、トマトや温泉卵を使うのも面白いかも知れませんね。
食事の時にする挨拶。
子供の頃はしないと叱られるから呪文のように唱えていた言葉だったけど、その言葉の意味合いを知ってからは発する言葉に込める気持ちが違っていったのを思いだします。
お茶碗に残した一粒のお米が、苗として育てられ稲穂となって翌年に収穫されれば、約180粒のお米になるそうです。
自分の命を維持する為に、他の命を犠牲にしなければならない食物連鎖の中、肉、魚はもとより、野菜や一粒のお米も生命として見れば、何一つ粗末にする事はできません。
昨今、給食時に金払ってるんだからいただきますを言わせるな。 という保護者が居るといいますが、まったく意味が伝わっていない事に原因があるようです。
先日、小学校の先生にそんな父兄は居るかと聞いたら、そういう親御さんは未だ居ませんと答えが返ってきました。
田舎だからなのか、たまたまなのか? でも先生からの言葉には未だという言葉が付いていました。 (汗)
若い先生でしたが、「いただきます」の意味はご存知だったので、ちょっと安心した一幕でした。